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川喜田半泥子 [陶磁]

川喜田半泥子の作品を見て

芸術家といわれる人たちは、貧しい中でも苦労を重ねて制作を続けているものだと、解釈したがる。確かにそのような芸術家が多い。反対に、裕福で材料入手に事欠かない芸術家で良く知られているのは、メンデルスゾーンである。川喜田半泥子もその一人である。三重県の百五銀行の頭取になり、若いときから関心のあった陶芸の道に50を越えて入ったという。その作品を見て、裕福の欠片を感じさせないのはなぜか?先入観なしに、作品を見ると、豪華であり、力強くもあり、繊細で、渋みがある作品は表現豊かであった。86の茶碗を見たが、中でも、黄瀬戸と志野焼は印象的だった。芸術作品を種々の角度から、照明の反射も受け入れながら見ると、思わぬ造形・色彩を見つけることができる。これがまた楽しみである。そのことを表現する適切な手段は、文章ではなく、写真である。高感度でフラッシュの必要がなくなったデジカメの登場があっても、資料館や博物館での写真撮影が許されない。外国では許可されるところもある。日本では写真集をお求め下さいとなる。しかし、転載禁止です。となれば、人それぞれ異なる視点を直視的に表せない。残念である。

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多治見と瀬戸の陶磁資料館と美術館で陶器を見た。日本の陶器の原点は須恵器であろう。それは生活用具の一つであった。現存する須恵器を見ると生活臭の中に形の芸術性があり、生々しい中に余裕を見ると、逞しさを感じる。武家文化に変わると、陶器も変わり、茶碗が茶道になり、花瓶が華道に変わった。その中に生まれた「文」というけ物が出てきた。その化け物が、現代では、芸術と変遷し、高い精神性を求めるように変わった。
ところで、定年退職した先輩が陶芸の道に入る例を数で知ると、化け物の世界に転進して、新たな自分を表現する自由さ希望かと憶測する。まあ、趣味の領域でお作りになるのは結構なことだが、供与されたり、道具として頒布されてはたまったものではない。洗練されているか、いないか、自分が判断するから我侭である。確固たる哲学をもって制作している半泥子は自分の表現の普遍性を見つけることができる。

幼少期に清水焼の窯元近くに育ち、職人と話をしたり、何度も製作現場を見た経験からすると、現代陶器には生活と芸術の戦いがなく、ただ、幽玄の境地へと向かっているような気がしてならない。それは一つの流行・文化なのかもしれない。
織部の骨董品屋で使い勝手の良さそうな茶碗を500円で買って、茶をのみ、ミニ丼を食べたりした後で、空になった茶碗をつくづく眺めると釉薬の掛け具合、デザインの面白さ、場合によっては少し不安定な置き具合、何ともありがたいものである。(前ブログ掲)

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タグ:陶磁器
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