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伊勢神宮 [巨樹]

伊勢神宮 内宮

091123
この日は伊勢神宮の新嘗祭(にいなめさい)と、3連休最後の日と重なり賑わっていました。内宮参拝のため、入り口で橋を渡ります。それが宇治橋ですが、すっかり新しくなっていました。20年に一度ある式年遷宮は平成25年に第62回が行われる予定ですが、その前に多くの改修があります。その一つが宇治橋の新装です。新嘗祭にあわせて、渡り初め式がありました。新装の橋の下を流れる五十鈴川は紅葉の中にありました。
【追記100110】
五十鈴川には宇治橋近くに棒のようなものが川の中に立っています。これは上流から流れてくる流木やゴミなどをここで止め、直接橋桁に当たらないように工夫されています。どれだけ効果があるかわかりませんが、宇治橋の重要さを、細かい気配りを慮ります。

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内宮へ入って直ぐに目に付くのは杉の巨木です。これらの杉の三つほど概略計ってみると(四分の一周を計測または見積もり、四倍するか、直径を計測または推測して3,14倍する)目通り約4-6mありました。生育条件によって異なりますが、計測されている他の杉の大木から類推して、樹齢500年を越えるでしょう。建材として切られずに残っているのは神宮の受け継がれた考え方の賜物でしょう。
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社殿の庭にも巨木がありましたが、撮影をご遠慮くださいと高札があり遠慮しました。その理由は書かれていませんでしたが、杉の木ではなく、神殿が撮影されるのを問題にしているのかもしれません。また、夕方のため光量が足らずに上手く撮れませんでした。ただ、参拝路にある杉は、根周りが踏み固められたところもあり、栄養分の補給がどのようにされるのか心配です。紀伊半島は台風の通り道になります。大木が周囲の雑木によって風が弱められ守られているのでしょう。巨樹は独りで育たないことを知る良い例になります。修学旅行において、この象徴を自然から学ぶ絶好の機会です。

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宇治橋の下に造園整備された庭があり、老木の横に十月桜が咲いているのを見つけました。多くの人がただ通り過ぎる中で、写真を撮っていると気になるのですね。「何の花?」「梅にしてはおかしい」と聞こえましたが、造園者の気持ちを黙って慮りました。
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また来たくなるところです。江戸時代の伊勢参りは庶民の公認旅行でした。現在は巨樹拝観の旅にもなります。伊勢神宮の森は神宮杉だけでなく、ブナ、椿、クヌギ、などもあり、巨大植物園です。少し目を周囲に向けますと、内宮の後ろに控える神路山島路山があります。これらの山々は、かつて社殿建材のヒノキの供給源でした。ここに、我々は環境との共生を学習できます。というのは、両山の社殿用ヒノキはすでに枯渇してしまったのですから。そのため、美濃や木曽に建材を求めることになりました。伊勢神宮が自前でヒノキの建材として使用できるためには200年以上の歳月を要します。この計画はすでに実施されています。しかし、式年遷宮は20年毎、人生100年とすると、環境におけるリサイクルは、息の長い見通しを堅持していくことが必要であると再認識させられました。
(091125改稿)

【追記100110】
20年毎の立替は立替技術の伝承を守るための期間であろう。技術の口述伝承は多くの場面で20年と考えるのは適当かもしれない。年齢で言うと25歳から45歳までと推定される。記憶力はもう少し若い方が良いかもしれない。
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犬山城の「大杉様」 [巨樹]

犬山城の「大杉」

お城の横に杉の大木があることは珍しい。
駐車場から犬山城の本丸へ上がる石畳の先に門があります。
門の中に入ると、先ず城郭が目に止まります。その右横に鐘楼のような雨除けがしてあるところに巨樹があります。その表札に「大杉様」と書かれています。杉を様付けで呼ぶのは尊敬の気持ちの表れと思われます。樹齢650年(築城は1469年とあるため、樹齢530年と計算されますが)の杉は目通し4m近い(私の実測)木です。その姿は堂々としていますが、先が切られており、屋根が被せてあります。実は1965年にすでに枯れてしまったとのことです。城は1957年に国宝と指定され、1961-1965年改修工事が行われました。これに呼応して、この杉は枯れてしまいました。杉の周囲を見ますと、鐘楼のように石組みがされています。また、雑木が少なく、植物生育にとって、必ずしも好条件ではありません。ここにも生き物の叫びがありました。無機体の城が再現しましたが、有機体の杉が犠牲になりました。観光で人を集め、経済の復興を図るという刹那的な考えを、当時の人は考えていたのでしょうか?歴史の流れの中で、大きな損失を目にできるように、この枯れた杉を残すことは大変意味のあることです。「沈黙の杉」は「饒舌な枯れ木」となって言い伝えられてもしかるべきものです。48年前とは違い、現在ではこのような巨樹を枯らすことは考えられないことです。城を見る人は是非「大杉様」を見るという観光があっても良いのではないでしょうか。

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大杉様といわれる杉

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後ろに城が見えます。

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虎渓山永保寺 [紅葉]

虎渓山永保寺

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先ずはディジブックから



虎渓山とは名前が良い。寺の縁起によると景色が中国廬山の虎渓に似ているところから名付けられた由とある。
http://www.kokei.or.jp/
この寺にあるイチョウは樹齢685年の巨樹である。目通り4.4mであるが、上部で拡がっている。根を保護するために柵を設けてあるが、境内が清掃してあるため畑などの栄養分がある地面が近くに見られない。距離はあるが池、川や林まで根を張ることもあるかもしれない。この木は雄木であるために銀杏を集める人が群がることはない。枝の張りは比較的偏りが少ないので安定を感じられる。幾度かあった庫裏の火災で北側の枝が少なく、庫裏と反対側の枝張りが盛んである。樹高は25mであるが、周囲の建物や丘との比較から出過ぎたものとは見えない。老木であるが孤高とした美しさを保つご努力に感謝申し上げたい。ありがとう。

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長楽寺の大イチョウ [巨樹]

長楽寺の大イチョウ

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長楽寺は岐阜県中津川市の阿木(あぎ)にあります。昭和42年2月14日に岐阜県の天然記念物に指定されたイチョウの木があります。戦国時代に武田信玄軍勢によって、この寺は消失しましたが、イチョウの木は生き残りました。樹齢1100年のイチョウは目通り8.2m(地上高1.2mで測った樹木の幹の周長)、樹高28mの雄株です。この木はイチョウとしては岐阜県内で2番目に大きな木です(一番目は飛騨国分寺)。数年前に木が弱わり、地元の人が樹木医に指導を受け、肥料などを施し、2009年の今、立派な黄色の葉をつけていました。地元の人の話を伺うと、周辺の下水道工事をしたときに、根が建物の下にまで到達していることが明らかになったそうです。これを機に樹木を整備したとのことでした。「ようやく今年は元気になった」と明るく答えておられました。巨樹といえども地元の人の保護がなければ枯れてしまいます。巨樹の周囲に田圃があり、根が田圃から栄養分を取る結果大きくなることが他の木でも見られます。逆に、石垣を周囲にめぐらしたり、木から2mのところを舗装したりして、弱くなったところ台風などによって倒木する例を見てきました。
http://kz--t5.blog.so-net.ne.jp/2009-10-16
樹高と根の張り具合が同じであるという目安から、根元からの半径が根の先端と見積もると、半径28mの円を描くけば、近くの建物の下を通り抜けることになります。また、巨樹は少し傾斜地が適当らしく、水捌けも重要な生育条件となっていると思われます。これらに加えて、地元の人の愛着心とか積極的な保護・お世話が大切であることを再度知りました。
地元の方へお礼を申し上げます。

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粗製濫造の写真ですが、まだあります。
http://pht.so-net.ne.jp/photo/usuzumi/albums/171644

このイチョウの樹皮は白くなったところもあります。また、根元から子木が出ていますが、その樹皮がクラストしています。手を大きな幹にあてますと、木の精が話す声の振動が伝わってくるようです。今日も木の音を体で感じることができ、木に対して感謝の気持ちを覚えました。

妻籠宿 光徳寺の桜 [巨樹]

幻となった光徳寺の桜

江戸彼岸桜の寿命は1000年とすると、250年というのは子供の桜になりますが、同じ程度の寿命を持つ、若い枝垂桜が自然に倒れるということがありました。妻籠(つまご)宿の町並みから山の方へ30mほど上がったところに光徳寺があります。その寺の脇の斜面にその木はありました。この木は樹齢250年の枝垂桜で、地元の老人に伺うと、子供の頃から、毎春きれいな桜の花を見てきた、という親しまれた木でした。ここ妻籠宿は江戸時代まで中仙道の宿場町として栄えました。しかし、1911年、国鉄が、遅れていた中央西線を開通することによって、南木曽(なぎそ)駅から3.5km脇道に入った妻籠宿は、木曽谷とも離れているので、人の往来から取り残されました。宿場町としての役割がなくなり、荒廃の進む中、1968年、明治100年記念にあたり、廃れた町全体が歴史建造物地区として保存され、多くの廃屋は改修されました。これらの歴史の変遷があり、この枝垂桜はすべて見てきました。

この桜に関心を持ち、桜の姿に関する記録を調べましたが、多くはありませんでした。それでも、地元のご老人にお話を聞いたり、案内所の方に資料を見せていただいたりして集めた結果を以下にまとめます。

先ず、観光案内所でいただいた古いパンフレットにある写真を紹介しましょう。

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写真から推定して、この木は、おそらく幹周り3-4mはあったでしょう。光徳寺の脇斜面に植わっていました。ご老人の話からすると、寺の改修と道路の舗装はこの桜の木にダメージを与えていたのでしょう。高さの2倍ほど張る根は行き場がなかったことと推察されます。2004年4月28日午後1時30分頃、春嵐によって根こそぎ倒れてしまいました。このことについて、当時の地方紙の記事が残っています。また、現在の跡地は、町のHPに掲載されていますが、春には開花情報の問い合わせが未だにある、と案内所で聞きました。なお、この木は町指定の天然記念物の指定を受けていました。

町のHP:
http://www.tumago.jp/today/?p=944

地元新聞記事
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振り返ってみると、2004年というのは古いものが崩れるように去る年だった印象を持っています。それ以降、どこの場面でも、効率やお金で数値化する時代になりました。観光資源とならない古い枝垂桜は、支える支柱の手当てを受けることがありませんでした。行政に工事のためのお金がなかったのでしょうか。ところが、倒れてしまうと、一時的に残念がる風潮が拡がりました。これではどうしようもない、その話を聞いたお年寄りは、「狂った世相の表われ」と諦め混じりに皮肉っていました。この辺の人は、1968年を契機に、観光商業化の波に巻き込まれ、今でも、その流れは続いています。一体、何百年も続いた宿場町が培った生活史の美しさを、忘れ物にしてしまったのでしょうか。妻籠宿を高台から眺めると、山間にある落ち着いた山村で、歴史的な臭いがします。

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しかしながら、このような桜の不運があっても、この桜の木の実が落ちて育った枝垂桜と思われる、子桜が横の庭に見つけました。また、小学校の枝垂桜(この桜は樹齢50年程度のソメイヨシノの枝垂桜と説明を受けましたが、ソメイヨシノという確証は得られませんでした)があり、大切に見守っていくことができます。なお、小学校の桜の木は数百m離れた本陣の門から山手に、真正面に見えます。春には絶妙の背景となるでしょう。

寺の横の民家の枝垂桜
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小学校の枝垂桜
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本陣から見た小学校の枝垂桜
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川喜田半泥子 [陶磁]

川喜田半泥子の作品を見て

芸術家といわれる人たちは、貧しい中でも苦労を重ねて制作を続けているものだと、解釈したがる。確かにそのような芸術家が多い。反対に、裕福で材料入手に事欠かない芸術家で良く知られているのは、メンデルスゾーンである。川喜田半泥子もその一人である。三重県の百五銀行の頭取になり、若いときから関心のあった陶芸の道に50を越えて入ったという。その作品を見て、裕福の欠片を感じさせないのはなぜか?先入観なしに、作品を見ると、豪華であり、力強くもあり、繊細で、渋みがある作品は表現豊かであった。86の茶碗を見たが、中でも、黄瀬戸と志野焼は印象的だった。芸術作品を種々の角度から、照明の反射も受け入れながら見ると、思わぬ造形・色彩を見つけることができる。これがまた楽しみである。そのことを表現する適切な手段は、文章ではなく、写真である。高感度でフラッシュの必要がなくなったデジカメの登場があっても、資料館や博物館での写真撮影が許されない。外国では許可されるところもある。日本では写真集をお求め下さいとなる。しかし、転載禁止です。となれば、人それぞれ異なる視点を直視的に表せない。残念である。

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多治見と瀬戸の陶磁資料館と美術館で陶器を見た。日本の陶器の原点は須恵器であろう。それは生活用具の一つであった。現存する須恵器を見ると生活臭の中に形の芸術性があり、生々しい中に余裕を見ると、逞しさを感じる。武家文化に変わると、陶器も変わり、茶碗が茶道になり、花瓶が華道に変わった。その中に生まれた「文」というけ物が出てきた。その化け物が、現代では、芸術と変遷し、高い精神性を求めるように変わった。
ところで、定年退職した先輩が陶芸の道に入る例を数で知ると、化け物の世界に転進して、新たな自分を表現する自由さ希望かと憶測する。まあ、趣味の領域でお作りになるのは結構なことだが、供与されたり、道具として頒布されてはたまったものではない。洗練されているか、いないか、自分が判断するから我侭である。確固たる哲学をもって制作している半泥子は自分の表現の普遍性を見つけることができる。

幼少期に清水焼の窯元近くに育ち、職人と話をしたり、何度も製作現場を見た経験からすると、現代陶器には生活と芸術の戦いがなく、ただ、幽玄の境地へと向かっているような気がしてならない。それは一つの流行・文化なのかもしれない。
織部の骨董品屋で使い勝手の良さそうな茶碗を500円で買って、茶をのみ、ミニ丼を食べたりした後で、空になった茶碗をつくづく眺めると釉薬の掛け具合、デザインの面白さ、場合によっては少し不安定な置き具合、何ともありがたいものである。(前ブログ掲)

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タグ:陶磁器

織田信長像 [銅像]

織田信長

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金ぴかの銅像が岐阜駅前に出来た。
市制120年を記念して寄付によって作られた。
都市再生を願う、となっている。

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銅像を作って都市を再生するというのも飛躍的な考えである。

もう少し落ち着いて考えてみる必要がある。
なぜ、
柳ヶ瀬の繁華街が静かになったか、
駅前の繊維問屋街が荒廃したのか、
メルサ岐阜店の閉店されたのか、
もっと深く考え、日本経済の流れの中での議論、を踏まえ、
名古屋から独立した新岐阜の10年、20年先を見据えた戦略を立て、
足固めをすべきであろう。

岐阜は、壮大な土壌と山岳から自然の産物を得、
日本の中心となる位置を有し、
古くからの開放的商業の歴史を地盤としてきた。
この空間・時間的に位置関係を再認識すれば、
新しい経済素地を見出せるはずである。
住民一人一人が織田信長であって、
過去の突出した人物を辿るという性格のものではない。

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(揶揄的に言えば、「苦しい時の信長公頼みではない」と聞こえる)

スペシャルブラックカレーライス(津) [食]

東洋軒

単純な話ですが、三重県といえば伊勢神宮と松坂牛を思い出す。
それでは行って見よう。まず、津にある朝日屋へ。

連休の高速は四日市付近で、8kmの渋滞にはまった。
これは亀山ジャンクション近くの登りと片側三車線から二車線になるところで起こる。
渋滞の時には、ドライバーは気を長く持ち、割り込まれても腹を立てず、何かを食べて気を沈め、
後ろ七分、前三分の注意で、適当につめて並ぶ。時速5kmで1km行くのに12分、
時速80kmで12分なら16km、全行程160kmとしても1割未満の時間が余分にかかったことになるだけ。

津で高速から一般道へ出て、国道23号線へ向かう。少し北へ向かうと左手に朝日屋が見えてくる。
細切れでも高いが、(460円/100g)400gを購入。23号線を交差点で南下して
陸橋をくぐった次の交差点を右折、150mほど行ったところの右手に駐車場がある。
東洋軒は表の造りが大正風。
ここのスペシャルブラックカレーライス(¥1500)がちょっと高いがよい。
普通のブラックカレーライス(¥1000)もある。味は濃いが小麦粉の味が目立つ。

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明治22年に始めたというが、本店は津である。
何でも東京中心で動く社会はおかしい。その土地、地場産業、伝統の完成品、
その土地の雰囲気が食を育てる。出かけてよかった。

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ありふれたシジミチョウ [蝶]

ルリシジミとヤマトシジミ

世の中には派手なものと地味なものが1:100の割で生きている。
日本の蝶の世界では、大型のものが目に付き、
小型のシジミチョウやセセリチョウは蛾と間違えられ正当な評価を受けない。

ここで登場するのはシジミチョウの中のヒメシジミチョウ亜科の2匹である。
庭に水を撒くといつも慌てて飛び交うのがシジミチョウである。
夕刻になると行動が鈍り、良く止まってくれるので写真を撮り易い。

ヤマトシジミ
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この蝶は本州以西でよく見かける。シジミチョウの仲間は止まっている時には羽根を閉じているため、
表側の色は分からないが飛んでいるときには青っぽく見える。確かに、羽根を開くときれいな色が見える。
食草はカタバミである。今、青紫蘇の花に止まっている。


ルリシジミ
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もっとも良く見かけるシジミチョウである。名前から想像するイメージに合わない地味な蝶に見える。
しかし羽根を拡げると空色が一部黒い色で縁取られ高貴な感じさえする。
食草はマメ、バラ、タデ、ミカン科の植物である。ちょうど咲き始めたヤナギタデの花に止まっている。
花弁の味は分からないが蕾ですらピリッとする。
「タデ吸う蝶も好き好き」とは言えないが、
ルリシジミと違い、ヤマトシジミはタデに止まらない。
多分、ヤマトシジミはタデがお好みではないらしい。

織姫神社のイチョウ [巨樹]

織姫神社(桐生市役所横)のイチョウ

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見たところ大きな木と認識できるが、地元の人は関心がない。
場所は桐生市役所の横の織姫神社のイチョウの木である。

桐生は繊維の町であった。かつて富士紡績株式会社桐生工場があった場所は戦後、
桐生市へ譲渡された。神社自身は桐生市川内町の白滝神社から勧請したものである。
1895年のことであるからそのときに植樹されたものとすると、樹齢115年になるが、
おそらくそれより古いと幹周りから推定できる。

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幹周:400cm強、樹高:20m、根元から約1mのところで2つに分岐している。若い木で樹勢は盛ん。
歴史を象徴する木でありながら、なんら案内もない。
おそらく、県民性を象徴しているのかもしれない。もったいないことだと思った。
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