妻籠宿 光徳寺の桜 [巨樹]
幻となった光徳寺の桜
江戸彼岸桜の寿命は1000年とすると、250年というのは子供の桜になりますが、同じ程度の寿命を持つ、若い枝垂桜が自然に倒れるということがありました。妻籠(つまご)宿の町並みから山の方へ30mほど上がったところに光徳寺があります。その寺の脇の斜面にその木はありました。この木は樹齢250年の枝垂桜で、地元の老人に伺うと、子供の頃から、毎春きれいな桜の花を見てきた、という親しまれた木でした。ここ妻籠宿は江戸時代まで中仙道の宿場町として栄えました。しかし、1911年、国鉄が、遅れていた中央西線を開通することによって、南木曽(なぎそ)駅から3.5km脇道に入った妻籠宿は、木曽谷とも離れているので、人の往来から取り残されました。宿場町としての役割がなくなり、荒廃の進む中、1968年、明治100年記念にあたり、廃れた町全体が歴史建造物地区として保存され、多くの廃屋は改修されました。これらの歴史の変遷があり、この枝垂桜はすべて見てきました。
この桜に関心を持ち、桜の姿に関する記録を調べましたが、多くはありませんでした。それでも、地元のご老人にお話を聞いたり、案内所の方に資料を見せていただいたりして集めた結果を以下にまとめます。
先ず、観光案内所でいただいた古いパンフレットにある写真を紹介しましょう。
写真から推定して、この木は、おそらく幹周り3-4mはあったでしょう。光徳寺の脇斜面に植わっていました。ご老人の話からすると、寺の改修と道路の舗装はこの桜の木にダメージを与えていたのでしょう。高さの2倍ほど張る根は行き場がなかったことと推察されます。2004年4月28日午後1時30分頃、春嵐によって根こそぎ倒れてしまいました。このことについて、当時の地方紙の記事が残っています。また、現在の跡地は、町のHPに掲載されていますが、春には開花情報の問い合わせが未だにある、と案内所で聞きました。なお、この木は町指定の天然記念物の指定を受けていました。
町のHP:
http://www.tumago.jp/today/?p=944
地元新聞記事
振り返ってみると、2004年というのは古いものが崩れるように去る年だった印象を持っています。それ以降、どこの場面でも、効率やお金で数値化する時代になりました。観光資源とならない古い枝垂桜は、支える支柱の手当てを受けることがありませんでした。行政に工事のためのお金がなかったのでしょうか。ところが、倒れてしまうと、一時的に残念がる風潮が拡がりました。これではどうしようもない、その話を聞いたお年寄りは、「狂った世相の表われ」と諦め混じりに皮肉っていました。この辺の人は、1968年を契機に、観光商業化の波に巻き込まれ、今でも、その流れは続いています。一体、何百年も続いた宿場町が培った生活史の美しさを、忘れ物にしてしまったのでしょうか。妻籠宿を高台から眺めると、山間にある落ち着いた山村で、歴史的な臭いがします。
しかしながら、このような桜の不運があっても、この桜の木の実が落ちて育った枝垂桜と思われる、子桜が横の庭に見つけました。また、小学校の枝垂桜(この桜は樹齢50年程度のソメイヨシノの枝垂桜と説明を受けましたが、ソメイヨシノという確証は得られませんでした)があり、大切に見守っていくことができます。なお、小学校の桜の木は数百m離れた本陣の門から山手に、真正面に見えます。春には絶妙の背景となるでしょう。
寺の横の民家の枝垂桜
小学校の枝垂桜
本陣から見た小学校の枝垂桜
江戸彼岸桜の寿命は1000年とすると、250年というのは子供の桜になりますが、同じ程度の寿命を持つ、若い枝垂桜が自然に倒れるということがありました。妻籠(つまご)宿の町並みから山の方へ30mほど上がったところに光徳寺があります。その寺の脇の斜面にその木はありました。この木は樹齢250年の枝垂桜で、地元の老人に伺うと、子供の頃から、毎春きれいな桜の花を見てきた、という親しまれた木でした。ここ妻籠宿は江戸時代まで中仙道の宿場町として栄えました。しかし、1911年、国鉄が、遅れていた中央西線を開通することによって、南木曽(なぎそ)駅から3.5km脇道に入った妻籠宿は、木曽谷とも離れているので、人の往来から取り残されました。宿場町としての役割がなくなり、荒廃の進む中、1968年、明治100年記念にあたり、廃れた町全体が歴史建造物地区として保存され、多くの廃屋は改修されました。これらの歴史の変遷があり、この枝垂桜はすべて見てきました。
この桜に関心を持ち、桜の姿に関する記録を調べましたが、多くはありませんでした。それでも、地元のご老人にお話を聞いたり、案内所の方に資料を見せていただいたりして集めた結果を以下にまとめます。
先ず、観光案内所でいただいた古いパンフレットにある写真を紹介しましょう。
写真から推定して、この木は、おそらく幹周り3-4mはあったでしょう。光徳寺の脇斜面に植わっていました。ご老人の話からすると、寺の改修と道路の舗装はこの桜の木にダメージを与えていたのでしょう。高さの2倍ほど張る根は行き場がなかったことと推察されます。2004年4月28日午後1時30分頃、春嵐によって根こそぎ倒れてしまいました。このことについて、当時の地方紙の記事が残っています。また、現在の跡地は、町のHPに掲載されていますが、春には開花情報の問い合わせが未だにある、と案内所で聞きました。なお、この木は町指定の天然記念物の指定を受けていました。
町のHP:
http://www.tumago.jp/today/?p=944
地元新聞記事
振り返ってみると、2004年というのは古いものが崩れるように去る年だった印象を持っています。それ以降、どこの場面でも、効率やお金で数値化する時代になりました。観光資源とならない古い枝垂桜は、支える支柱の手当てを受けることがありませんでした。行政に工事のためのお金がなかったのでしょうか。ところが、倒れてしまうと、一時的に残念がる風潮が拡がりました。これではどうしようもない、その話を聞いたお年寄りは、「狂った世相の表われ」と諦め混じりに皮肉っていました。この辺の人は、1968年を契機に、観光商業化の波に巻き込まれ、今でも、その流れは続いています。一体、何百年も続いた宿場町が培った生活史の美しさを、忘れ物にしてしまったのでしょうか。妻籠宿を高台から眺めると、山間にある落ち着いた山村で、歴史的な臭いがします。
しかしながら、このような桜の不運があっても、この桜の木の実が落ちて育った枝垂桜と思われる、子桜が横の庭に見つけました。また、小学校の枝垂桜(この桜は樹齢50年程度のソメイヨシノの枝垂桜と説明を受けましたが、ソメイヨシノという確証は得られませんでした)があり、大切に見守っていくことができます。なお、小学校の桜の木は数百m離れた本陣の門から山手に、真正面に見えます。春には絶妙の背景となるでしょう。
寺の横の民家の枝垂桜
小学校の枝垂桜
本陣から見た小学校の枝垂桜
2009-10-18 11:23
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